企画展
近代南画の雄 石川寒巌 絵にこめられた魂


石川寒巌《子牛》1931年 栃木県立美術館蔵
開催期間 | 2011年10月29日(土)― 2011年12月25日(日) 前期:2011年10月29日(土)― 2011年11月27日(日) 後期:2011年11月29日(火)― 2011年12月25日(日) |
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1890(明治23)年、栃木県黒羽町(現・大田原市)に生まれた石川寒巌(本名・寅寿、1890-1936年)は、大田原中学校を卒業後、19歳で上京、太平洋画会研究所に通って絵画修行に励みました。そこで洋画を学ぶ一方、佐竹永邨(さたけ・えいそん)に日本画を習い、画家への道を歩み始めます。しかし、まもなく肺炎を患い、21歳で帰郷を余儀なくされました。断ち切れぬ画家への思いと長引く病とに苦悩しますが、やがて禅修行を精神的な支えとし、教職の傍ら、郷里で絵画制作をするようになります。「寒巌」は、この頃の禅修行によって与えられた道号です。そして、1920(大正9)年に再び上京、今度は同郷の関谷雲崖(せきや・うんがい)の紹介で小室翠雲(こむろ・すいうん)の門に入り、日本南画院を舞台に活躍するようになります。次第に頭角を現すようになった寒巌は、伝統的な南画の様式や技法の追求にとどまらず、郷土の豊かな自然に培われた感性によって、生命感あふれる独自の画風をつくりあげました。さらに、1929(昭和4)年、小杉放菴(こすぎ・ほうあん)らが主宰した在京栃木県出身の画家集団「華厳社」に参加、同じく放菴主宰の荘子や詩経の研究会「老荘会」には1932年に参加するなど、1920年代後半以降は円熟期の活躍を見せています。この頃、画風も新たな展開を示し、その筆致はますます冴えわたっていきました。しかしながら、1935(昭和10)年の帝国美術院展覧会(帝展)で無鑑査に選出され、将来を嘱望された矢先に病を得、翌年春、惜しくも46歳の短い生涯を閉じました。その早すぎる死を悼み、同年の南画院展には数点の遺作が展示されています。
石川寒巌が活躍した20世紀初頭は、衰退傾向にあった南画が再び評価され、新しい南画として脚光を浴びるようになった時代です。本展は、まさにその渦中にあった石川寒巌の画業の全貌を、初期時代の洋画も含めて約130点で展観するものです。あわせて、師・小室翠雲、親交のあった小杉放菴、岸浪百草居(きしなみ・ひゃくそうきょ)、大山魯牛(おおやま・ろぎゅう)といった、交遊の画家たちの作品も紹介します。
主 催: | 栃木県立美術館 |
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助 成: | 芸術文化振興基金 |
協 賛: | 東武宇都宮百貨店 |
後 援: | 朝日新聞宇都宮総局、NHK宇都宮放送局、エフエム栃木、下野新聞社、とちぎテレビ、栃木放送、日本経済新聞社宇都宮支局、読売新聞宇都宮支局 |
展示構成
- 修業時代 洋画と日本画
《日本橋浜町河岸》1909年ほか - 南画家としての一歩
《風雨帰漁》1921年、《漁舟》1922年、《大正大地震大火災之巻》1923年ほか - 風景へのまなざし 理想郷と故郷
《松林図》1924年、《晩晴》1925年(上野記念館蔵)、《煙雨》1925年、《晨》1928年、《昏》1928年ほか - 新たな展開 写実と装飾
《子牛》1931年、《雪文》1933年、《永春》1934年ほか - 寒巌と交遊の画家たち 小室翠雲、小杉放菴、岸浪百草居、大山魯牛
小室翠雲《堕金釵図》1922年、《瑞西所見》1931年、小杉放菴《黄初平》1915年(小杉放菴記念日光美術館蔵)、岸浪百草居《西園清人樹》1932年(館林市立資料館蔵)、大山魯牛《山水長巻》1923年(足利市立美術館蔵)ほか
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《日本橋浜町河岸》1910年 栃木県立美術館蔵 |
《松林図》1924年 栃木県立美術館蔵 |
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《晩晴》1925年 上野記念館蔵 |
《煙雨》1925年 栃木県立美術館蔵 |
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《晨》1928年 栃木県立美術館蔵 |
《昏》1928年 栃木県立美術館蔵 |
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《踏断流水》1929年 栃木県立美術館蔵 |
《蓬莱仙境》1930年頃 栃木県立美術館蔵 |
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《菜果図》 栃木県立美術館蔵 |